曹操の眉間に刻まれた、深い皺。
 時折ぎゅっと閉じられる、切れ長の眼。

 これらは、ある特定の条件を満たすと見る事が出来た。とは言っても──出来る事なら、見たくないものである。
 というのも──


 夏侯惇は曹操の自室に向かっていた。軍の再編成について確認しておこうと考えたからだ。
 何度も通ってはいるが、道のりが長く感じるのは、気のせいだろうか。

「孟徳、入ってもいいか?」
 心を通わせている相手だとしても、礼儀は忘れない。
 返事が来ない。外出しているのだろうか。
「……入るぞ?」
 再度断りを入れた後、夏侯惇は扉を開ける。そしてゆっくりを部屋の中に足を入れた。
 曹操の姿を確認する事が出来た。だが彼は机の前に座っているにも関わらず、ぴくりとも動かず顔を伏せているのだ。気になり、静かに曹操の傍まで行き、屈んだ。
 居眠りをしているのだろうか。いや、もしくは。
「……孟徳、どうした?」
 声に気づいた曹操はゆっくりと顔を上げる。――思っていた通り、顔色が悪く、彼の額にはうっすらと汗玉が現れていた。
 特に何も言わずに夏侯惇がそっと着物の袖で額の汗を拭おうとしたが、煩わしそうに曹操は顔を背けた。別段気にする事では無い。この状態に――頭痛に襲われるといつもこうなる。全てが鬱陶しくなるそうで、こうして優しさでも拒むようになってしまう。
 最初は戸惑ったものの、慣れた今はどうって事は無い。
「嫌だったか、すまんな。……そんな状態では執務も出来ないな。休め」
 とは言っても自力で動ける様子では無かったので、夏侯惇は抵抗する曹操を無理矢理立たせると、躯を支えながら一歩ずつ仮眠用の寝台へと進ませる。その間、二人は言葉を交わさない。
 寝台が目の前に来ると、夏侯惇は頭痛を刺激しないように曹操をゆっくりと寝台に座らせ、そのまま横たわらせた。
「……元譲、大丈夫か?」
 やっと曹操が口を開いた。幾分か機嫌が良くなったようだ。
 しかし、どうにも言葉の意味がわからない。それは夏侯惇の台詞の筈である。
「頭がこんがらがっているのか? まずは自分の心配だろう」
「……顔色が……」
 顔色?
 一体何を言っているのか、と問いただしたかったが、気づいたら曹操は小さく寝息を立てていたので、聞く事は出来ず。
「……全く、お前という奴は」
 早く良くなるように、と願いを込めて夏侯惇は優しく曹操の頭を撫でた。


 *


「……夏侯惇が?」
「そうらしいです。珍しい事もあるものですね」
 すっかり体調が良くなった曹操の元に、報告書を届けにきた郭嘉が興味深い事を教えてくれた。
「殿ならわかりますが、夏侯惇将軍が頭痛で休暇を欲しいだなんて、ね。常に共に居るせいで、移ってしまったのでしょうか?」
「冗談はよせ、郭嘉。──たかが頭痛。大した事では無かろう」
 曹操は書き終えた竹簡を郭嘉に手渡すと、立ち上がり執務室から出て行った。
「……大した事では無い、か……。無理をしなくとも良いのに」
 一人残された郭嘉は手渡された竹簡を開いてみて、思わず苦笑してしまう。

 竹簡に書かれている力強くてかつ滑らかな筆跡に、所々不自然に崩れている文字が紛れ込んでいた。


 *


 私邸の閨にて、寝台に横たわって休んでいた夏侯惇は家人が告げた知らせに、思わず眉間に眉間に皺を寄せた。
 見舞いに来た方が居る、という事らしい。その気持ちは有難いが、今は出来る事ならそっとして欲しい。じゃないと、響くのだ。
 丁重にお断りを、と家人に指示を出そうとしたが……遅かった。
「随分苦しそうだな、夏侯惇?」
 主であり従兄弟の曹操が嫌みたらしい言葉と共に現れた。

 怯えている家人を下がらせると、夏侯惇は溜め息と共に曹操に対して椅子に座る様促したのだが、曹操はそれを無視し、夏侯惇が既に横たわっている寝台に腰掛けた。
「孟徳」
「で? どうなのだ頭の方は」
 もう知っていたか、と言わんばかりに夏侯惇は気まずそうに視線を逸らすと、静かにふう、と息を吐いた。
「……まだ、痛む」
 それを聞くと曹操がこっそり、夏侯惇の顔を良く見ようと移動する。
「朝、目覚めたら妙に躯が重くてな。それでも出仕しようとは思ったのだ。だが、暫くして頭が痛くなって……今まで経験した事が無い痛みだったからどうして良いかわからず……つい休んでしまった。すまん」
「謝らなくても良い。儂だって頭痛が起きた時は何もしたくなくなる」
「……孟徳はいつも、こんな苦しみと戦っていたのだな……」
 ふと、夏侯惇が曹操に向かって手を伸ばしてきた。何事か、と躯を倒して更に顔を近付けると、夏侯惇の手が曹操の頭に乗せられる。
「……すまなかった」
 突如の謝罪。何の事かはわからなかったが、この男は自分に落ち度があったと思うと謝らずにはいられなくなるのだ。
「お前はいつもこんなに苦しい思いをしていたのだな……。なのに、俺は全くわかってやれなかった」
「確かに、何度か仮病使うなと怒られた事もあったな」
「そ、それは」
「冗談だ。本当に仮病だった事もあるからな」
 曹操が意地悪くそう言って笑う。それに怒ったようで、夏侯惇は曹操の頭に乗せていた手でそのまま彼の頭を叩いた。だがそれ程痛くは無い。
 その刺激のせいか夏侯惇がう、と呻いて頭を押さえた。頭痛がひどくなったらしい。
「全く……どれ、頭痛持ちの達人として、良い事を教えてやろう」
 曹操が夏侯惇の隣に寝転んできた。寝台はそれ程大きな物では無かったので、大の大人が二人並ぶと少し窮屈になる。顔など本当に眼と鼻の先だ。
「頭痛が起きた時は、頭痛の事は極力忘れて、別の事を考えるのだ。あの優秀な人材が欲しいとか、次はどんな詩を作ろうか、とかな。そうすれば、いつの間にか頭痛は消える」
「……それは、孟徳だから出来る事では無いのか? 俺は一体何を考えれば良いのだ?」
「儂の事を考えればよかろう」
 その瞬間、夏侯惇は頬を赤く染め上げたが、一方の曹操は平然としており、まるで幼子を寝かしつけるかのように、優しく夏侯惇の頭を撫で始めた。
「どうだ? それなら簡単だろう?」
「……本当に、意地悪だな」
「ふふ、知っておる」
 そう笑いかけると夏侯惇は更に頬を赤くし、曹操の顔を見ないよう努力しながら口を開いた。
「……言われなくても、今は孟徳の事しか考えられない」
 小さな囁き声ではあったが、曹操の耳にはしっかり届いた。その証拠に、表情が緩みっぱなしである。

 しばらくすると、夏侯惇の眼が虚ろになり瞼が下がってきた。どうやら睡魔がやってきたようだ。このまま眠れば、目覚めた時には頭痛も軽くなる筈だ。
「眠くなったか。儂の事は気にせず眠ると良い」
「……あぁ、そうさせて、もらう……」
 瞼が完全に落ちた。
 少しして寝息も聞こえてくると、曹操は安心して一息つく。
「気にかけてくれるだけでも、嬉しいのだぞ、儂は」
 起こさないようにゆっくりと身を起こし、寝台から降りる。
「……この痛みと苦しみは儂だけで十分。お主が抱える必要は無いのだ」

 そしてこっそりと、閨から立ち去って行った。


 その後、曹操から「決して起こすな」「念の為に医師に薬湯を準備させるように」という言いつけをしっかりと守った家人のお陰で夏侯惇はきちんと躯を休める事が出来、頭痛は無くなったという。



完



ちょっと変わった頭痛ネタを書いてみました。実際、惇兄が頭痛に襲われる事ってあるのかしら。

[2012年 8月 21日]