官渡の地にて、名族が率いる大軍と対峙した。
 此方の方が不利なのは明確である。様々な点で劣っている。

 そんな不利な状況下に居るのは、軍神と、曹操の下へ降ってきたばかりの男。



「関羽殿」
 張遼が馬を進め、近づいてきた。声に応え、関羽が振り向く。その手には得物の青龍偃月刀。そして、
 跨がっているのは、逞しく、血のように赤い体を持つ――一日に千里駆けると言われる名馬・赤兎馬。
「……御出陣、ですか」
「あぁ。それにしても、この馬は素晴らしいな。跨がっているだけでもわかる」
 そう言うと関羽は、赤兎馬の首筋を撫でる。赤兎馬は微動だにしない。不快ではないようだ。
 張遼は微かに笑う。だが、どこかに哀が混じっていた。

「……すまない」
 関羽は見逃さなかった。
「何故、謝るのです?」
「本来、赤兎は……そなたが使うべきだ。……受け継ぐべきだ」
「…………」
 赤兎馬は、最初から関羽の愛馬では無かった。
 かつての主は、この世で“鬼神”と畏れられた――呂布。赤兎馬に跨がって戦うその様は、“人中の呂布、馬中の赤兎”と人々が畏敬の念を抱いた。
 だが、鬼神は下ヒの地で、果てた。
 呂布に仕えていた張遼は殉じる事無く、曹操に仕える事となる。関羽が曹操に頼みこんだ為にそうなったのだが、少なくとも、張遼がそう望んではいないのは確かだ。
 しかし関羽は、頼んだのは正しかったと信じる。憎まれても良い。あんな場所で素晴らしい武人を散らすのは、耐えられなかった。
「……いえ」
 張遼が静かに口を開く。
「私に、赤兎に乗る資格はありません。貴公のような素晴らしいお方にこそ、赤兎は相応しい」
 何故、関羽が赤兎馬に乗っているのか。それは、曹操が関羽を自分の配下に加えようとして贈った為であった。
 どの贈り物にも興味が無かった関羽だが、赤兎馬だけは喜んだ。というのも、こんな名馬なら直ぐに義兄・劉備の元へ駆け付ける事が出来る、という理由からであったが。
「……すまん。……では、出る」
「御武運を」
 再び謝った関羽は赤兎馬の腹を蹴り、戦場へと駆け出した。
 張遼は、走り去る背中をじっと見つめていた。



 私も行かなければ。
 そう思った時、とある事に気づいた。頬に何かが。
 指で掬ってみる。あぁ、これか。また無意識だった。
 ――赤兎は知っているのだ。主を裏切り、のうのうと生きているという事を。
 だから、拒まれた。
「……そう、赤兎に乗るのは、貴方のような素晴らしい武人でなくては」
 ぽたり、ぽたりと、頬から零れる雫。
「――呂布殿」





 不意に目線を下げてみた。映るのは、揺れ動く鬣(たてがみ)。
「……赤兎」
 返事が返ってくる筈が無い。しかし、それでも声をかけたくなった。
「そなたは……これで良かったと思うか?」

 赤兎馬はただ、駆けるだけ。





……関→遼?
知らず知らずの内に関羽に呂布を重ねてしまう張遼。

[2010年 10月 10日]