「……来てねぇ?」
 李典は耳を疑うような話をたった今、兵卒から聞いた。
「はい。時間になっても来られないので、確認してみた所……出仕されてないと」
 壮大な溜息を吐く。どうしてこうも自由奔放なのか、全く理解出来ない。
「汎さんは?」
「張汎殿は本日、出仕されない筈です」
 また溜息。この溜息の原因の事を詳しく知っているのは彼しか居ないというのに、休みとは。
「あいつが居ないと騎馬の調練出来ねぇだろ。……にしても、何でそれを俺に言ってきた? 関係無いだろ、俺」
「……あの、李典殿に、お願いしたい事が」
「お願い?」
「張遼殿の私邸へ、行っていただきたいのです」


「…………は?」
 おそらく空耳だったのだろう、いや、そうであってくれ。
「この事を荀彧殿に報告した所……『では李典殿に連れて来てもらうよう頼んで下さい』と指示されましたので……」
 あの腹黒参謀が。李典は荀彧を恨んだ。
 李典と溜息の原因――張遼の関係は訳有って、良好では無い。それを知っていながら、わざとそう指示したのだ。関係を良くしようという計らいはわかるが、はっきり言って、余計なお世話である。
「ことわ」
「それから、『断ったらどうなるかわかってますよね?』と伝えるよう承りました」
 抜かりは無いようだ。流石、と言った所か。
「……行きゃあ良いんだろ行きゃあ……」



「張遼様は邸から出られないとの事で……」
「…………本気で言ってんのか、それ」
 張遼の私邸に着き、出迎えた家人に『とっとと出仕してこい』と張遼に伝えるよう頼んだのだが、返ってきた答えに頭が痛くなりそうだった。
「……埒が明かねぇ。ちょっくら上がらせてもらうわ。おもてなしはいらねぇから」
「え、李典殿!?」
 このまま玄関で押し問答をしても解決しないと判断した李典は、家人を無視してずかずかと邸の中に入り込んだのだった。

「おーい張遼! 出てこいや!!」
 廊下を早歩きで進みながら大声を出す李典。すると、
「でかい声を出すな、馬鹿」
 とある一室から出て来た主・張遼。何故か小声だ。
 姿を確認すると、李典は足音をわざとらしく大きく立て、まゆをつりあげた。
「てめぇ、何で出仕してこねぇ……!? お陰で俺が面倒に巻き込まれたんだぞ!!」
「いいから、静かにしろ」
 大声で怒りを顕わにしている李典に対し、己の唇に人差し指を当てて声を小さくするよう求める張遼だったが、
「そんな我が儘が言える立場か!? なんだ、二日酔いでもして頭に響くのか?」
「違う。黙って言う事を聞け。……起きる……」
 李典の耳には届かず、相変わらずの大声で張遼に迫る。
 と、
「仕事をすっぽかす野郎の言う事なんか聞けるか阿呆!! ほら、早く行くぞ!」
 張遼の腕を掴み、無理矢理連れて行こうとした時だ。
「……ちちうえ……」
 子供の、弱々しい声だ。
 それを聞いた途端、李典の怒りは落ち着いた。気になって腕を放し、張遼の背後を見てみる。
 そこには真っ赤な顔で、涙目になって立っている男の子が居た。
 すると張遼は李典を恨めしげに睨みつけた後、急いで男の子を抱き抱えると先程出て来た部屋へと戻っていった。
「……ちびすけ?」
 李典も付いていく事にした。


 部屋に入る時、自然に足音を小さくした。
 張遼はと言うと、部屋の中にある寝台に横向きになって寝そべっていた。
 何してるんだ、と思いこっそりと近づいてみる。
「……すぅ……」
 始めは張遼の躯に隠れて見えなかったが、先程姿を見せた男の子が眠っていた。だが、その寝顔は苦しげで頬を赤くしており、額には汗をかいていた。時々、張遼が額に張り付いた髪をどかすついでに頭を優しく撫でる。
 実は李典はこの男の子の事を知っていた。この“ちびすけ”は――張遼の息子・張虎だ。
「……ちびすけ、具合わりぃのか?」
 張虎に気遣い、ぎりぎりで張遼に聞こえる程の声量で話しかける。
「風邪をこじらせたらしい」
 息子を寝かしつけた張遼はそう呟きながら、物音を極力立てぬようゆっくりと寝台から降りると、静かに部屋を出ていった。ちらりと張虎を見た後、李典も続いて出ていく。



「出仕してこなかったのは、具合わりぃちびすけが、ぐずったからか。そういや、嫁さんは?」
「あいつは今身重だから、虎の病気を移らせない為に実家に帰してある。不服そうだったがな」
 張虎が眠っている部屋から離れた所にある客室に居る、李典と張遼。今は張遼から出仕出来なかった事情を聞いていた。
「……風邪をひいてから、急に赤子のように戻ってしまった。俺が居ないとすぐに泣く。今日も出仕しようとしたら起きてきて、泣きつかれた」
「まぁ、あれだ。こんな具合わりぃ時に一人だと不安なんだろ。……にしても、意外だな」
「何がだ?」
 李典は感心したかのように頷くと、にやにやと笑って頬杖をついた。
「いやぁ、ちゃんと“父親”出来んだな」
「……そんなにおかしいか」
 その言葉が気に入らなかったらしく、張遼は李典を睨みつけた。
「あんたみたいな野郎は、子供なんかほったらかしにするかと思っていたからよ」
「見た目で判断するな」
「見た目だけじゃなくて、すべてを見て判断しているんだが?」
 途端に流れる、不穏な空気。暫く二人で睨み合う。

「……帰るわ。これ以上居てもしょうがねぇし」
 頭を掻くと、李典は立ち上がり出て行こうとする。
「……俺を連れに来たんじゃないのか」
 見送るそぶりを見せない張遼は李典の背中に問い掛けた。
「今あんたを連れていったら、ちびすけが可哀相だろ」
 立ち止まりはしたが、振り返る事も無く答えた李典。
「ま、“父親”の仕事頑張れや」
 そう言って、軽く手を上げた後、李典は立ち去って行った。


 一人残った張遼は、溜息を吐くと、立ち上がり、張虎が眠っている部屋へと戻る事にした。
 結局、あいつは面倒をかけに来ただけなのか、と疑問を持ちながら。





本当に李典は何をしに来たのか……(何)

[2010年 11月 21日]