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 かつかつかつ……
 荀彧が指先で机を叩いていた。それが内心で苛立っている合図だというのは、最近知った事である。
 音はそれほど大きいものでは無いのだが、その場はざわめきすら無い、重苦しい雰囲気である為、よく響き渡っていた。
 近くにいる夏侯淵と曹仁が何やら騒がしくなってきた。元々こういう雰囲気は苦手な二人だ。そろそろ耐え切れなくなるとは予想していたが。
 聞こえてくるのは『軍議もう始めちゃおうよ』『無理だからこうなってんだろ!』『そこをどうにかしてよ仁兄!』とか何とか、そんな事を小声で話し合っていた。
 だが、荀彧のわざとらしい咳ばらいによって止まってしまう。びっくりしたのか、二人共びくりと肩を震わせる。
 もう限界か――そう悟った夏侯惇は、腰を上げた。



「あ、おはよう、夏侯惇」
 あの重苦しい場所を離れ、目的地に辿り着くと、扉の前に立っている許褚に声をかけられた。
「おはよう。……殿はまだ中か?」
「うーん、俺さっき来たばかりだけど、たぶんそうだと思う」
「そうか」
 許褚の言葉を聞いた夏侯惇は扉に向かって、
「殿、夏侯元譲です」
 呼び掛けてみるが、返事は返ってこない。
「……失礼致します」
 それでも夏侯惇は扉を開けると中へ入っていく。臣下では唯一、閨の出入りを許されている彼にしか出来ない事だ。
 上品な華美を持つ室内。その奥にあるのは大きい寝台である。室内に入ってすぐに寝台に目を向けるが、
「っ、失礼」
 素早く寝台に背を向ける事となった。その訳はというと。
「あら……何も、気にしませんのに」
 くすくす、と笑い声。
 寝台には上半身を起こした卞怜季が居た。彼女が羽織っているのは薄絹だけであったので、豊かな躯がほとんど露になっていたのである。
 そして、よくは見えなかったが――あの場の重苦しい雰囲気の原因がその隣りで眠っているようだった。
「……操様、起きて下さいな。操様」
 夏侯惇が此処にやってきた理由がわかった卞怜季はあの原因――曹操の耳元で彼の名を呼び、躯を少し揺らして起こしにかかった。
「……怜……」
 意識が戻ったようだ。だが起きる気配は全く無く、挙げ句の果てには卞怜季を自分の側に引き込もうと薄絹を掴んで引っ張っている有様である。
「殿、皆が待っております。早くお支度を」
 そんな気配を察したのか夏侯惇がすかさず声をかける。
「……俺が、居なくても……いいだろう……」
 まだ起きる気は無いようだ。
「それが出来ないから此処に来たのです」
「操様、皆様を困らせては駄目ですよ」
 従弟と妻、続けて言われたのには参ったのか、すごくゆっくりとした動きで上半身を起こした曹操。だがそれ以上動く様子は無い。
 卞怜季が曹操の身支度をし始める。
「……眠い、動きたくない……」
「殿、我が儘は言わないで下さい」
「…………」
 未だに声に覇気が無い。卞怜季に髪を結ってもらっているのもされるがまま。この調子では例え身支度が出来ても、閨から動こうとしないだろう。
 夏侯惇は溜め息を吐くと、
「……卞夫人。申し訳ありませんが、殿の身支度をお願いします」
「承知しました」
 閨の扉に向かって歩きだした。だが数歩踏み出してから、また止まった。
「ああ、それと……何か着ていただけませんか。貴女は良くても……私は気になります」
「ふふふ、そうですか。ごめんなさいね」
 それだけ言うと、夏侯惇は閨から出ていった。

「出来ましたよ、操様」
 最後に襟を正す事、曹操の身支度は完了した。卞怜季も薄絹の上から新しい着物を纏っている。
「…………ん」
 着物を着させてもらう為に立っていた曹操だったが、終わるとほぼ同時に、寝台に腰掛けてしまった。目はまだぼんやりしている。
 卞怜季が思わず苦笑してしまった時だ。
「んー……本当に大丈夫なのかな」
「仕方がない。このままでは埒があかないからな」
 夏侯惇が閨に戻ってきた。本来なら許しが無くては中に入れないはずの、許褚もいる。
「卞夫人、助かりました。それでは殿を連れていきます」
 曹操の身支度をしてくれた卞怜季に頭を下げている夏侯惇の側では。
 許褚が軽々と、寝ぼけている曹操を持ち上げていた。しかも持ちやすいように躯を肩に乗せている。
「……ん……ぅん!?」
 どうやら躯が宙に浮いた事で、ようやく曹操は覚醒出来たようだ。
「まぁ、これなら楽ですね操様」
「えーと、奥の方の広間で良いんだっけ」
「ああ。では行くぞ」
 改めて卞怜季に頭を下げた夏侯惇は、あの軍議が行われているはずだった場所へ戻るべく移動を始めた。その後ろを、軍議を行う為に重要な人物を抱えた許褚が付いていく。そして、それをにこやかに手を振って見送る卞怜季であった。

「虎痴! 私はもう大丈夫だ、歩けるぞ! 元譲からも何とか言え! ……降ろせー!!」
 この状況が恥ずかしくて堪らない曹操の声が、辺りに響き渡った。





「曹操の動かし方」
まずは卞夫人から説得、駄目なら夏侯惇から説得、それでも駄目なら……許褚の手で強制連行。

[2011年 3月 25日]