長かった冬が終わり、ようやく雪解けした頃。

 己の部屋で書き物をしていた夏侯惇はふと、暖かな光を射し込んでくる窓を見た。
 外は陽気そのもの。春だ。
 沸き起こった欠伸を噛み殺し、作業を再開した時の事。
「兄貴ー!」
 外から弟の夏侯淵の声が響いた。普段なら遠慮無く部屋に入ってくるのに何事か、と思い窓のすぐ側へと近づいた夏侯惇。
 窓から見えた夏侯淵は普段着より更に動き易さを重視した服装で、手には愛用の鞍を持っている。
 こちらに気づいた彼が、鞍を指差し何かを伝えてきた。──連想されるのは「遠乗りに行こう」という誘いだ。
 途中である書き物が一瞬頭をよぎったが、後少しで完成するし、それにせっかく外は春の陽気に包まれている。外に行かないのは些か勿体無い。

 偶にはいいか。夏侯惇は窓に向かって頷くと、すぐに準備に取りかかった。


「もう冬の間動かせなかったのが可哀想でさー! 絶好の遠乗り日和じゃん今日!」
「ふふ、お前らしい」
「そういう兄貴だって楽しそうじゃん!」
 他愛のない話しをして笑いあっていると、厩にたどり着いた。中へ入ると、二人の姿を見た二頭の馬がどこか嬉しそうに嘶いた。
「待たせたな~狢翼(かくよく)。雷進(らいしん)も」
 狢翼は夏侯淵、雷進は夏侯惇の愛馬である。
 二人はそれぞれの馬に手綱や鞍を付け、さぁ厩から出ようとした時だった。
「……あいつ、大人しいな」
 夏侯淵が不思議そうに厩の隅の方を見るので、釣られて夏侯惇も見る。

 目に入ったのは、厩の一番隅からでも逞しい体格がわかる赤い躯の馬。一日に千里を駆けるとも言われている名馬──汗血馬だった。

 冬にあった戦で手に入れた戦利品の一つ。だが、いざ騎乗を試みると途端に暴れ出し、手に負えない状態となってしまうのだ。
 だからこうして厩の隅に繋ぐしかなく、宝の持ち腐れとなり果てている。
「赤兎(せきと)、だっけ。あいつの名前」
「その筈だが」
「お~い赤兎。お前も遠乗り行くかー?」
 夏侯淵は愛馬を置いてゆっくりと汗血馬の方へと近づいていく。まだ向こうは大人しい。が、何か起こる前に止めるべきかと考えた夏侯惇が口を開きかけた、その時だった。
 夏侯淵が目の前で床に敷かれた藁を踏んだと同時に、汗血馬が鋭い嘶きと共に前脚を振り上げたのだ。
「わ、わっ!」
 突然の出来事の為か、動けない夏侯淵。彼を助けたいのだが、汗血馬の様子に他の馬達も動揺したのか落ち着きが無くなった為、夏侯惇はそれらを宥めるのに手一杯だ。
「落ち着けって赤兎! 暴れたら駄目だって!!」
 大きな躯故に、動く度に壁や柵に躯が当たり、傷を付けていく。それでも汗血馬は暴れるのを止めない。
 内に秘めてた感情を、一気に解き放つかのように。
「こうなったら、怪我覚悟で抑えつけて……!」
 そう夏侯淵は決意していたが、それは無駄になる事になった。

 きっ、きっ、きっ

 舌打ち、のように聞こえた音。その音が響いた途端、汗血馬は落ち着きを取り戻し、音がした方へ耳を動かす。他の馬達も。
 夏侯兄弟が出した音では無い。

 厩の入口に立っていた男──冬の戦で汗血馬と共に降ってきた張遼が鳴らした音だった。

「た、助かった……すっげぇな張遼! その音どうやったんだ?」
 張遼の存在に気づいた夏侯淵が声をかける。まだ日の浅い降将相手でも気軽だ。一方の夏侯惇は警戒心丸出しで張遼を見つめているが。
 夏侯淵の言葉を無視し張遼は無言で汗血馬に近付くと、そっと手を伸ばした。
「あぶなっ」
 また暴れるのではないかと、ひやりとしたがそれも杞憂に終わる。
 汗血馬は張遼の手を受け入れ、大人しく撫でさせていた。
 張遼は一頻り撫でた後、囲いの一部を外し、汗血馬を外に連れ出そうとする。
「あぁお前も遠乗りに行くのか? じゃあお前も一緒に」
「降将の分際で調子に乗るな」
 突如として夏侯惇が眉間に深い皺を刻んで張遼に詰め寄った。夏侯淵が止めたが振り切る。殺気を込めた睨みを見せつけられても、張遼は無表情である。相手が視界に入っていないかのように。
「それは殿の所有物であってお前の物では無い。勝手な行動は慎め」
「曹操のでは無い。これは奉先のだ」
「……一度は見逃す。だから早く手を放せ」
『……──────?』
 嘲笑を浮かべた張遼は漢人には馴染みのない異民族の言葉を呟くと、素早く汗血馬を外に出してその場から駆け去る。夏侯淵があっ、と短く声を発した間の事であった。
「……馬鹿にしやがって」
 珍しく不快感を思いっきり露わにした夏侯惇を見て、夏侯淵は気まずそうに兄と張遼が去っていった方向を交互に見ていた。
「べ、別にいいんじゃない? どうせ俺らには手に負えないしさ。あいつに見てもらってた方が良いって。何でかあいつには懐いてるみたいだし」
「そういう問題では無い。己の立場をまだ理解していないのがいけないのだ」
「もう俺らの仲間だよ? 信じようぜ?」
 その言葉に、弟だろうが容赦無く睨みつける。肩をびくりと震わせたが、気遣うつもりも無い。
「……遠乗りはお前一人で行け」
「ご、ごめん兄貴。ごめんって……」
 悲痛な声に、今は何も感じられなかった。



 執務室にて夏侯惇から今までの事を聞かされた曹操は、何故か満足げに頷いた。
「ふふふ、まだ牙は折れていないようだ。こうでなきゃつまらない。あの“金色の狼”と恐れられた……呂奉先の軍から降らせた意味が無くなるからな」
「あのまま放置しておくつもりか。反逆の意を秘めたまま我が軍に置いておくなど……」
「心配性だなぁお前は」
 曹操はゆったりとした動きで夏侯惇に近づく。夏侯惇の眉間の皺が更にはっきりと見える。
「……いずれ、己の立場がわかるだろう。俺の将として、な」



 舌打ち──舌鼓(ぜっこ)を再び鳴らす。
 赤兎は素直に聞き分け、その場に立ち止まった。
 城下から離れ、小さな川の近くまで駆けてきた張遼は赤兎から下り、休息をとらせる。
「足は大丈夫なようだな、赤兎」
 赤兎に水を飲ませながら、張遼はその赤い躯を隈無く調べていた。異常が無いという事がわかると、続けて張遼も水を飲み始めた。
『……漢人共はお前をどうするつもりだろうな』
 張遼は漢人と異民族の混血児として生を受けてから、漢人の世界で生きてきたが──思考はどちらかというと異民族の傾向がある。
 張遼が曹操の下に降る前には、“金色の狼”として漢王朝の人間に恐れられていた男・呂布と共に大地を駆けてきた。呂布も漢人と異民族の混血児だった。それから意気投合し、互いに背中を預けられる程に信頼しあうようになった。
 呂布軍が曹操軍の策に嵌まり、敗北するまでは。

『仲間は、皆居なくなった。俺とお前しか残っていない。……たまに考える。もしあいつらの後を追っていたら、どうなっていたのだろうかと』
 水を飲み終えたらしい赤兎が、じっと張遼を見つめきた。優しくたてがみを撫でてあげる。
『……赤兎、俺は、漢人が怖い』
 たてがみを撫でる手が、止まった。
『何を考えているかわからない。権力とは、力とは何だ。そんなに大事なのか』
 徐々に、震えがわき起こる。
『…………怖い……』

 赤兎は何を思っているのか、それは張遼ですらわからない。



 続く?



まだ続く予定です。

[2013年 4月 20日]